序論:なぜ今、中国の国産CPU「Loongson(龍芯)」が注目されるのか?

近年、世界のテクノロジー業界の注目が、中国の国産CPUメーカー「Loongson Technology(龍芯中科)」に集まっている。特に、サーバー向けの「Loongson 3C6000」や産業用制御(インダストリアルコントロール)向けの「Loongson 2K3000」といった新世代プロセッサの発表は、単なる新製品の登場以上の意味を持つ 。これらの製品は、いかなる外国のライセンス技術や海外のサプライチェーンにも依存しない、完全な自主独立を掲げて開発されたものであり、地政学的な緊張が高まる中での中国の技術的自立への強い意志の表れである 。
この動きの背景には、中国が長年にわたり国策として推進してきた壮大な戦略が存在する。1980年代の「863計画」に始まり、近年の「中国製造2025(Made in China 2025)」に至るまで、中国政府は半導体分野での自給自足を目指し、巨額の資金を投じてきた 。特に「信創(情報技術応用イノベーション)」と呼ばれる国家プロジェクトは、政府機関や国有企業において国産のハードウェアとソフトウェアの使用を義務付けることで、Loongsonのような国内企業に安定した市場を提供している 。さらに、通信キャリアに対して2027年までに外国製チップを排除するよう指示するなど、国を挙げて国内製CPUへの移行を加速させている 。
Loongsonの胡偉武(Hu Weiwu)会長は、同社の目標を「IntelやAMDが主導するx86アーキテクチャと、ARMアーキテクチャに続く『第3の生態系(エコシステム)』を構築すること」だと公言している 。これは単にチップを製造するだけでなく、コンピューティングの根幹を成す独自の技術体系を確立しようという野心的な試みだ。Loongsonの発展は、一企業の成功物語ではなく、国家主導の産業政策がハイテク分野でどれほどの成果を上げられるかを示す重要な試金石と言える。同社の進捗を分析することは、グローバルな技術覇権争いの未来を読み解く上で不可欠となっている。
- 電機メーカー勤務
- エンジニア歴10年以上
- 品質担当経験あり

Loongsonの心臓部:「LoongArch」アーキテクチャの全貌

Loongsonの技術的独立性の核となるのが、独自に開発された命令セットアーキテクチャ(ISA)「LoongArch」である。これは、同社が長年依存してきたMIPSアーキテクチャからの完全な脱却を意味する、極めて戦略的な転換点であった。
Loongsonの初期のプロセッサ「Godson」シリーズは、MIPSアーキテクチャとの互換性を基盤として開発された 。しかし、外国企業が所有するIP(知的財産)に依存することは、技術的な制裁やライセンス問題といった潜在的な脆弱性を常に抱えることを意味した 。この課題を根本的に解決するため、Loongsonは5000シリーズプロセッサから、完全にゼロから設計した独自のLoongArchへと舵を切ったのである 。第三者機関による評価でも、LoongArchはx86、ARM、MIPS、RISC-Vなど既存のいかなるISAとも関連がない、完全なオリジナル設計であることが確認されている 。
技術的に見ると、LoongArchは命令長を32ビットに固定したRISC(Reduced Instruction Set Computer)スタイルのアーキテクチャである 。その構造は、基本的な命令を処理する「基本部分」と、特定の処理を高速化する「拡張部分」から構成される。
- 基本アーキテクチャ: 一般的な演算を行う非特権命令セットと、OSなどシステムレベルの制御を担う特権命令セットで構成される。
- オプション拡張機能:
- Loongson SIMD Extension (LSX/LASX): マルチメディア処理や科学技術計算を高速化するための128ビットおよび256ビットのSIMD拡張命令 。
- Loongson Binary Translation (LBT): x86など他のアーキテクチャ向けに書かれたプログラムを効率的に実行するためのバイナリ変換支援機能 。
- Loongson Virtualization (LVZ): サーバーなどで利用される仮想化技術をハードウェアレベルで支援する機能 。
新しいISAをゼロから開発し、普及させることは極めて困難な道である。コンパイラやOS、各種ソフトウェアなど、エコシステム全体を構築し直す必要があるからだ。競合する国産メーカーであるZhaoxinがx86ライセンスによる互換性を、Huawei KunpengがARMライセンスによるエコシステムの活用を選択したのとは対照的に、Loongsonは最も困難な「完全独立」の道を選んだ 。この選択は、短期的な市場での利便性よりも、国家安全保障の観点から外国技術への依存リスクを完全に排除するという、長期的かつ戦略的な判断に基づいている。LoongArchは単なる技術仕様ではなく、中国が独自のコンピューティング生態系を確立するという断固たる決意表明なのである。
産業用オートメーション(FA)市場への切り札:Loongson 2Kシリーズ

Loongsonがその戦略的な重要拠点として狙いを定めているのが、産業用オートメーション(FA)およびプログラマブルロジックコントローラ(PLC)の市場である。この分野は、最先端の処理性能よりも、システムの安定性、長期的な供給保証、そして何よりもセキュリティが重視される。Loongsonは、ここに自社の最大の強みである「自主独立性」を活かすことで、確固たる足場を築こうとしている。
この戦略を具現化するのが、産業用制御、組込みシステム、IoTアプリケーションに特化して開発された「Loongson 2K」シリーズだ 。この製品ラインナップは、Loongsonが明確な市場セグメンテーション戦略を持っていることを示している。
最新のフラッグシップ製品である「Loongson 2K3000」は、この戦略の核となるプロセッサだ 。このチップは、8つの「LA364E」コアに加え、自社開発のGPGPU「LG200」を統合しており、グラフィックス処理だけでなく、AIアクセラレーション(単精度浮動小数点演算性能で256 GFLOPS、8ビット整数演算性能で8 TOPS)も可能にする 。
しかし、産業用CPUとして最も重要なのは、その豊富なI/Oインターフェースである。Loongson 2K3000は、PCIe 3.0、USB 3.0、SATA 3.0といった汎用インターフェースに加え、産業機器で不可欠なCAN-FDやSPI、LPC、リアルタイムシステムで用いられるRapidIOなどを網羅的にサポートしている 。これらの仕様は、LoongsonがFA市場の要求を深く理解し、的を絞った製品開発を行っていることの証左である。
この戦略はすでに具体的な成果を生んでいる。中国のFA企業である華龍訊達(Hualong Xunda)は、Loongsonのプロセッサ「LS2K1500」とリアルタイムOS「LoongOS」を搭載した、完全国産の小型PLCコントローラ「JICPLC2010」をリリースした。また、別の実証実験では、Loongson 3A5000をベースにしたPLCがわずか30マイクロ秒という高速な応答時間を達成し、リアルタイム制御における高い性能を証明している。すでに数十社の産業用機器メーカーが2K3000を採用した製品設計を開始しており 1 、Sixunitedのようなパートナー企業は、複数のCOMポートやファン制御モジュールを備えた産業用シャーシやボード製品群を市場に投入している。
これは、Loongsonの巧みな「橋頭堡戦略」と言える。性能競争が激しいコンシューマPC市場での正面衝突を避け、電力網や交通、製造業といった国の重要インフラ分野に狙いを定める。これらの分野では、外国製CPUを使い続けることが安全保障上の重大な脆弱性と見なされており、Loongsonの「安全で管理可能な国産CPU」という価値提案が最も強く響く。FA市場で一つでも多くのPLCやDCS(分散制御システム)に採用されるたびに、LoongArchのエコシステムは強化され、将来の市場拡大に向けた強固な基盤が築かれていくのである。
性能比較:LoongsonはIntel、AMD、そして国内ライバルにどこまで迫ったか?

Loongsonのプロセッサは、絶対性能において依然として世界のトップランナーに及ばないものの、その設計思想と進化のスピードは驚異的である。特に、プロセッサの基本設計能力を示すIPC(クロックあたりの命令実行数)において、目覚ましい進歩を遂げている。
サーバー市場の戦い:Loongson 3C6000 vs. Intel Xeon
サーバー市場向けに投入された16コアの「Loongson 3C6000」は、Intelが2021年にリリースした16コアのサーバー用CPU「Xeon Silver 4314」に匹敵する性能を持つと評価されている 。業界標準のベンチマークテスト「SPEC CPU 2017」では、整数演算性能でXeonを上回り、浮動小数点演算性能でも僅差に迫る結果が報告されている 。
さらに、Loongsonは「LoongLink」と呼ばれる独自の高速インターコネクト技術を開発し、複数のCPUチップを連携させるチップレット技術を実用化している 。これにより、32コア版の「3D6000」はIntel Xeon Gold 6338(32コア)と、64コア版の「3E6000」はIntel Xeon Platinum 8380(40コア)を上回る性能を実現しており、ハイエンドサーバー市場への参入も視野に入れている 。
デスクトップ性能の実力:Loongson 3A6000 vs. Intel Core / AMD Ryzen
デスクトップPC向けの「Loongson 3A6000」(4コア/8スレッド、最大2.5 GHz)は、総合性能では2020年に発売されたIntel Core i3-10100やAMD Ryzen 3 3100と同等レベルとされる 。
しかし、ここで注目すべきはIPCの高さである。複数の分析によれば、3A6000に搭載されているコア「LA664」のIPCは、AMDのZen 3/4やIntelのRaptor Lakeといった最新世代のアーキテクチャに匹敵、あるいは一部のテストでは凌駕するレベルに達している 。これは、Loongsonのマイクロアーキテクチャ設計能力が世界トップレベルにあることを示唆している。現在の性能的なボトルネックは、米国の制裁によりアクセスが制限されている最先端の製造プロセス(7nm以下)であり、設計そのものではないことがうかがえる。
中国国内の三つ巴:Loongson vs. Zhaoxin vs. Kunpeng
中国国内では、Loongsonを含め、それぞれ異なる戦略を採る主要なCPUメーカーが競い合っている。
| 項目 | Loongson (龍芯) | Zhaoxin (兆芯) | Huawei Kunpeng (鯤鵬) |
| 命令セット (ISA) | LoongArch(独自開発) | x86(VIAからライセンス) | ARM(ライセンス) |
| 代表製品 | 3A6000 (デスクトップ), 3C6000 (サーバー), 2K3000 (産業用) | KX-7000 (デスクトップ) | Kunpeng 920 (サーバー) |
| ターゲット市場 | 政府・公共、産業制御、サーバー、PC | PC、サーバー(互換性重視) | サーバー、通信、クラウド |
| 戦略的優位性 | 完全な自主独立性とセキュリティ。いかなる外国技術にも依存しない。 | 既存のWindows/x86ソフトウェアとの高い互換性。 | 巨大なARMエコシステムとHuaweiの開発力・市場影響力。 |
| 戦略的弱点 | ゼロからのエコシステム構築という大きな課題。 | 性能が数世代遅れ。VIAの技術に依存しており、真の独立ではない。 | ARMのライセンスに依存。地政学リスクの影響を受けやすい。 |
この比較からわかるように、Zhaoxinは「互換性」、Kunpengは「エコシステムの活用」、そしてLoongsonは「完全な主権」を最優先している。アナリストは、サーバー分野ではHuawei Kunpengが最も有力であり、PC分野ではLoongsonとZhaoxinが代替候補になると見ているが、将来的な性能の伸びしろではLoongsonがZhaoxinをリードしているとの見方が強い 。Loongsonの選択した道は最も険しいが、中国の国家戦略の観点からは最も理想的なアプローチと言えるだろう。
Loongsonエコシステムの構築:課題と展望
Loongsonが直面する最大の障壁は、x86やARMに匹敵する巨大なソフトウェア・ハードウェアエコシステムの構築である 。この「鶏が先か、卵が先か」という難問を解決するため、Loongsonは多角的な戦略を展開している。
ソフトウェア面では、OSベンダーとの連携を強化している。例えば、Linuxディストリビューションの一つであるDeepin OS(Debianベース)を開発するUnionTechと提携し、国産OS環境の整備を進めている 。また、Linuxカーネル本体へのLoongArchサポートの組み込みや、Alpine Linuxといった国際的なオープンソースコミュニティへの貢献も積極的に行い、グローバルな開発者からの支持を得ようと努めている 。
ハードウェア面では、すでに40社以上のOEMパートナーと協力し、LoongsonベースのサーバーやPCを市場に投入することで、独自の「小さな生態系」を形成し始めている 。Sixunitedのような企業は、最新のLoongsonチップを搭載したノートPCから産業用ミニPCまで、幅広い製品ラインナップを展開している 。
Loongsonのロードマップは、さらなる野心的な目標を示している。
- 次世代CPU: 現在開発中の「3B6600」や「3B7000」シリーズでは、Intelの第12~13世代CoreプロセッサやAMDのZen 3アーキテクチャに匹敵する性能を目指しており、7nmプロセスへの移行も計画されている 。
- GPGPU/AI分野への進出: CPUでの基盤固めと並行して、AI時代に不可欠なGPGPU(汎用グラフィックスプロセッサ)分野への進出を急いでいる。第一弾の「9A1000」が市場投入され、さらに高性能な「9A2000」はNVIDIAのGeForce RTX 2080に匹敵する性能を目標に開発が進められている 。
この開発戦略は、まず強固なCPU基盤を確立し(3A6000/3C6000)、次に性能を急速に向上させ(3B6600/7000)、同時にAIという次の主要なコンピューティング市場へ進出するという、IntelやAMDの発展の歴史を圧縮したかのようなアグレッシブなものである。現在、同社は上海証券取引所に上場しているが、先行投資としての莫大な研究開発費により赤字経営が続いている 。これは、短期的な商業的利益よりも、国家的な戦略目標の達成を優先する長期的な投資フェーズにあることを物語っている。
結論:日本の産業界にとってLoongsonの台頭が意味するもの

Loongsonの急速な台頭は、単なる一企業の成長物語ではなく、世界の技術地図が塗り替えられつつあることを示す重要な兆候である。これは特に、日本の産業界にとって看過できない変化を意味する。
第一に、Loongsonが中国の技術的自立を目指す国家戦略の先兵であることは疑いようがない。その進捗は、絶対性能ではまだ欧米の最先端に及ばないものの、IPCに代表される設計能力はすでに世界レベルに達しており、製造プロセスが唯一の大きな足かせとなっている。
第二に、FAやPLCといった産業用制御分野への戦略的な集中は、極めて計算された動きである。この分野は日本のFA関連企業(三菱電機、ファナック、オムロンなど)が強みを持つ市場だが、今後、中国国内の重要インフラプロジェクトではLoongsonベースの国産システムが標準仕様となる可能性が高い。これは、日本のサプライヤーにとって、巨大市場における新たな、そして強力な国策的競争相手の出現を意味する。
第三に、x86でもARMでもない「第3のエコシステム」の誕生は、技術標準やサプライチェーンの分断を加速させる可能性がある。中国で事業を展開する日本企業は、将来的にLoongArchエコシステムとの互換性を考慮した製品開発や戦略の見直しを迫られるかもしれない。
Loongsonの挑戦は、長期的な視点と国家的な支援があれば、巨大な既存エコシステムに対抗する新たな技術体系を構築することが可能であることを示している。日本の産業界や技術政策の立案者にとって、この中国の動向を注意深く分析し、自社の競争力とサプライチェーンの将来像を再検討することは、もはや避けて通れない課題となっている。Loongsonの動向を無視することは、もはや選択肢にはない。
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